ラバト
ラバトは、モロッコの首都。同国の政治の中心で、ムハンマド6世(モロッコ国王)の王宮が存在し、歴史的な都市で世界遺産に登録されている。
ラバト=サレ=ケニトラ地方に属する。
概要[編集]
街は大西洋に面しており、モロッコの北部に位置する。
歴史[編集]
12世紀~16世紀[編集]
ラバトは近くの古代都市サレに比べて比較的近代的な歴史を持っている。1146年、ムワッヒド朝支配者のアブドゥルムウミン(笑)は、ラバトのリバートをイベリア半島への攻撃の出発点として使用する本格的な要塞にした。1170年、軍隊の重要性から、ラバトは「勝利の拠点」を意味するRibatu l-Fathという異名となり、現在の名前になった。
別のアルモハド・カリフのヤクブ・アル・マンサール(モロッコのムーレイ・ヤコブ)は、ラファトに帝国の首都を移した。
彼はラバトの都市の壁、史跡カスバー・オブ・ザ・ユーダヤスを建設し、世界最大のモスクであったであろうものに建設を始めた。しかし、ヤクブは死んで建設が止まった。未完成のモスクの遺跡は、ハッサンの塔とともに残っているが、まだ立っている。
ヤクブの死は、衰退期を迎えた。ムワッヒド朝は、スペインとそのアフリカ領土の大部分で支配権を失い、結局完全な崩壊に至った。13世紀には、ラバトの経済力の大部分がフェズに移った。1515年、ムーア人の探検家、エルワッサンは、ラバトがあまりにも衰えており、人間が居住する家屋は100棟しか残っていないと報告している。17世紀初頭にスペインから追放されたモリスコスの流入が、ラバトの成長を促した。
20世紀[編集]
フランスの侵略[編集]
モロッコのフランスの管理者、ヒューバート・ライオーティはラバトにフェズから国の首都を移転することを決めました。他の要因の中で、反抗的な市民はフェズを不安定な場所にしてしまった。スルターンはフランス人の決定に従い、彼の住居をラバトに移した。1913年に、リュテュティは、行政部門としてヴィル・ヌーベル(ラバトの現代的な四半期)をデザインしたアンリ・プロストを雇った。
モロッコが1955年にフランスから独立した後、モロッコ国王であったムハンマド5世(モロッコ国王)は首都をラバトに残すことを選択した。
気候[編集]
地中海性気候なので、温帯である。
夏場は40度から50度くらいのものすごい暑い気温となる。乾燥帯である。