上田建二郎

提供:Ysmwiki
2018年3月27日 (火) 19:51時点におけるYsmreg (トーク | 投稿記録)による版 (荒らし被害の修復)
ナビゲーションに移動 検索に移動

上田 建二郎(うえだ けんじろう、1930年1月26日 - )は、日本共産党中央委員会常任幹部会委員、党付属社会科学研究所所長、前党中央委員会議長・不破哲三の本名。

中国・朝鮮総連との繋がり

1968年8月、宮本顕治を団長とする日本共産党訪朝団に参加し、金日成と会談。それ以前から、朝鮮戦争では北の侵攻を支持し、帰国事業を後押しする日本共産党と朝鮮労働党は蜜月状態にあった。その後、北への国際的な批判が高まるなかで関係断絶したものの、不破が党内の実権を握るにつれ、中朝との再接近を図るようになっていく。

1998年6月21日、中国共産党と関係正常化に向けて合意。7月21日には北京で江沢民と会談し、中共と日共は再度友党となる。それ以来、中国をもベトナム、キューバと同じく「社会主義を目指す国々」であると位置づけるようになった。朝日新聞からは『脱「孤立」柔軟路線』と評され、日共幹部は「日本の政党の中で、最も共通の言葉で語り合える仲になったのでは」と自賛している。

同時期、対北姿勢も変化させている。1997年3月25日、参院議員が拉致被害者家族会の結成に欠席したのも一例である。この時は、拉致疑惑解明に奔走してきた秘書の兵本達吉が、急遽司会をつとめる羽目になった。兵本の拉致調査には出張費さえ出ないので、現地取材にも身銭を切っていたという。遂には、スパイの濡れ衣を着せられて、除名された。公安警察に退職後の再就職斡旋を依頼したというのが、表向きの理由である。兵本への査問は計5回、20時間にも及び、査問者は拉致問題について詳しく追及してきたという。共産党は2000年6月の総選挙中、査問という制度はないと嘯いたが、これまで多くの党員が査問を受け、処分されてきたことは、メディアを通じて広く一般に知られている。党規律委員会の広瀬潜という人物が、査問時の録音テープを保管しているはずなので、フジテレビを相手取った裁判でこれを公開してはどうかと提案されている[1]。しかし、不破が応じる気配はない。

また、大韓航空機爆破事件は金日成の時代に起こされたこととし、「そういう種類の動きは、金正日氏の代になってからは、ないですよね」(しんぶん赤旗、2000年8月24日付)と語ってもいる。

2000年11月20日の第22回党大会には、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)幹部を招待。大会が始まる前、志位和夫書記局長、緒方靖夫国際委員会副責任者、西口光国際局長ら党幹部とともに、南昇祐(ナム・スンウ)副議長、金明守(キム・ミョンス)国際局部長と懇談した[2]。友好ムード一色の中、懸念されていた人権問題については一切触れなかった。

2001年2月22日には、韓徳銖(ハン・ドクス)が前日に死去したことを受けて、「韓徳銖議長のご逝去にあたり謹んでお悔やみ申し上げます。在日朝鮮人の生活と権利を守る韓徳銖議長の長年の活動を偲びつつ、朝鮮半島の平和と統一の事業への連帯の気持ちをこめて心から哀悼のあいさつを送るものです」との弔電を朝鮮総連本部に送った[3]

2002年8月の訪中時には、戴秉国(ダイ・ビングオ)中央対外連絡部部長に金正日総書記の人となりを尋ねている。この時期、日本人拉致は疑惑に過ぎず、証明されていないとして、日朝国交正常化交渉では、この問題を外すよう求めていた[4]。しかし、金正日が拉致を認めた途端、共産党はこの問題を一貫して追及してきたかのように宣伝し始めた。

そして、2005年5月24日に開催された朝鮮総連結成五十周年記念レセプションでは、金日成・金正日の肖像画の下で祝賀メッセージを読んだ。その中で、北朝鮮が拉致を認めたことについて「大きな勇気を必要とする決断だった」と評価[5]。一方、その日の会場の外では元赤旗記者の荻原遼が朝鮮総連を批判する内容のビラを配っていた。

後日、6月7日付けで除籍を通告された萩原だったが、党の仕打ちに納得できず、月刊誌(諸君!、2005年8月号)上で、「党の方針から逸脱したのは私ではなく、不破氏の方だ」と指摘[6]。「過去に規律委員会が私に求めてきたことは、元赤旗平壌特派員の肩書きを使うなというものであった。私の経歴は隠しようもないし、また経歴隠しも経歴詐称につながることを説いて彼らの非常識をたしなめた。彼らの要求のもう一つは、党見解と異なる意見を公表するなというものである。北朝鮮問題についてマスコミからコメントを求められる時、一々党本部に伺いを立てる時間的余裕のなさから食い違うこともある」などと、不破が率いる党に対しても反論を展開した。

脚注