上田建二郎

上田 建二郎(うえだ けんじろう、1930年1月26日 - )は、日本共産党中央委員会常任幹部会委員、党中央委員会付属社会科学研究所所長、前党中央委員会議長・不破哲三の本名。

天皇観編集

昭和天皇の政治姿勢について、「憲法を守ってない。講和・安保問題では米政府に何度もメッセージを送り、交渉に直接介入し、政府に交渉経過の『内奏』も要求した」と指摘。現天皇夫妻については、「節度を持っている。今の憲法とその精神を心得ている」と評価。

中朝との繋がり編集

66年2~4月、宮本顕治書記長を団長とする党代表団の一員として北ベトナム、中国、北朝鮮の三国を歴訪。この時、不破はベトナムの共産勢力を支援するために、「すべての勢力が団結してたたかう国際統一戦線の結成が急務」であり、「中国や北朝鮮の党との意見の一致をかちとることが重要」だと考えていた。しかし、毛沢東はソ連を統一戦線から排除せよと主張。宮本はソ連も統一戦線に加えよとの立場をとり、日中両党は対立してしまう。一方、朝鮮労働党とは蜜月関係を続け、68年8月に再訪朝している[1]。その後、83年のラングーン事件をきっかけに関係断絶したものの、不破が党内の実権を握るにつれ、再接近を図るようになっていく。ちなみに、内戦終結まで南北に分断されていたベトナムだが、不破の著書では北ベトナムが単にベトナムと表記されていた。

98年6月21日、中共と関係正常化に向けて合意。7月21日には北京で江沢民と会談し、中共と日共は再度友党となった。それ以来、中国をもベトナム、キューバと同じく「社会主義を目指す国々」であると位置づけるようになった。朝日新聞からは『脱「孤立」柔軟路線』と評され、日共幹部は「日本の政党の中で、最も共通の言葉で語り合える仲になったのでは」と自賛している。

同時期、対北姿勢も変化させている。97年3月25日、参院議員が拉致被害者家族会の結成に欠席したのも一例である。この時は、拉致疑惑解明に奔走してきた秘書の兵本達吉が、急遽司会をつとめる羽目になった。兵本の拉致調査には出張費さえ出ないので、現地取材にも身銭を切っていたという。遂には、スパイの濡れ衣を着せられて、除名された。公安警察に退職後の再就職斡旋を依頼したというのが、表向きの理由である。兵本への査問は計5回、20時間にも及び、査問者は拉致問題について詳しく追及してきたという。共産党は00年6月の総選挙中、査問という制度はないと嘯いたが、これまで多くの党員が査問を受け、処分されてきたことは、メディアを通じて広く一般に知られている。党規律委員会の広瀬潜という人物が、査問時の録音テープを保管しているはずなので、フジテレビを相手取った裁判でこれを公開してはどうかと提案されている[2]。しかし、不破が応じる気配はない。

また、大韓航空機爆破事件は金日成の時代に起こされたこととし、「そういう種類の動きは、金正日氏の代になってからは、ないですよね」(しんぶん赤旗、2000年8月24日付)と語ってもいる。

00年11月20日の第22回党大会には、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)幹部を招待。大会が始まる前、志位和夫書記局長、緒方靖夫国際委員会副責任者、西口光国際局長ら党幹部とともに、南昇祐(ナム・スンウ)副議長、金明守(キム・ミョンス)国際局部長と懇談した[3]。友好ムード一色の中、懸念されていた人権問題については一切触れなかった。

01年2月22日には、韓徳銖(ハン・ドクス)が前日に死去したことを受けて、「韓徳銖議長のご逝去にあたり謹んでお悔やみ申し上げます。在日朝鮮人の生活と権利を守る韓徳銖議長の長年の活動を偲びつつ、朝鮮半島の平和と統一の事業への連帯の気持ちをこめて心から哀悼のあいさつを送るものです」との弔電を朝鮮総連本部に送った[4]

02年7月、党創立八十周年の記念講演で、二十一世紀の世界を前向きに動かす力として、中国の挑戦をあげた。

02年8月26日、戴秉国(ダイ・ビングオ)中央対外連絡部部長との会談では、金正日の人となりを尋ねている。この時期、日本人拉致は疑惑に過ぎず、証明されていないとして、日朝国交正常化交渉では、この問題を外すよう求めていた[5]。しかし、金正日が拉致を認めた途端、共産党はこの問題を一貫して追及してきたかのように宣伝し始めた。

8月27日には、中国社会科学院で講演。中国の前進と発展ぶりを目一杯ヨイショしながら、ベトナムの田んぼで使われていたソ連製農業機械が重すぎてズブズブ沈んでいたことを笑いのネタにした。聴衆の中国人エリートらは繰り返し笑い、爆笑。それより前に代々木『資本論』ゼミナールでも同じ話をし、満場爆笑だったことから、笑いの国際的共通性を認識したという。だが良心的な中国人は、他国の技術を馬鹿にして恥じない不破のことを笑っていたのかもしれない。ちなみに、このエピソードについての記述では、フルシチョフの役職が書記長となっているが、正確には第一書記である。ついでに付記すると、ベトナムを訪問したときは、ベトナムを持ち上げている。

05年5月24日に開催された朝鮮総連結成五十周年記念レセプションでは、金日成・金正日の肖像画の下で祝賀メッセージを読んだ。その中で、北朝鮮が拉致を認めたことについて「大きな勇気を必要とする決断だった」と評価[6]。一方、その日の会場の外では元赤旗記者の荻原遼が朝鮮総連を批判する内容のビラを配っていた。

後日、6月7日付けで除籍を通告された萩原だったが、党の仕打ちに納得できず、月刊誌(諸君!、2005年8月号)上で、「党の方針から逸脱したのは私ではなく、不破氏の方だ」と指摘[7]。「過去に規律委員会が私に求めてきたことは、元赤旗平壌特派員の肩書きを使うなというものであった。私の経歴は隠しようもないし、また経歴隠しも経歴詐称につながることを説いて彼らの非常識をたしなめた。彼らの要求のもう一つは、党見解と異なる意見を公表するなというものである。北朝鮮問題についてマスコミからコメントを求められる時、一々党本部に伺いを立てる時間的余裕のなさから食い違うこともある」などと、党に対する反論を展開した。

06年6月1日の産経抄は、江沢民政権下の中国が、日本の世論対策までも、こっそりと不破に相談していたことを問題視した。正論(06年7月号)によると、戴秉国は、不破による自民党内の「右翼的傾向」の説明が参考になったと言い、「マスコミに対してどうすべきかアドバイスを」と教えまで請うていたという。これに対し、不破は「これからの戦いは国際世論の争奪戦」であると指摘。「国際世論をどう味方に付けるかが大事であって、小さな日本のメディア対策ではない。世界の世論をどうするかという視点が重要」と助言した。「日本メディアを対象としたマスコミ対策もあるが、日本国民がどう思うかを念頭に置いた外交をやらないと、世論争奪戦で負ける」とのことである。

中国社会科学院の世界社会主義研究センターが出している『世界社会主義黄書』(2012―13年版)では、妻・上田七加子の活動が好意的に取り上げられた。筆者は、日本共産党との理論交流にも加わっている中国社会科学院マルクス主義研究院の鄭萍。論文の大要は、『前衛』2013年9月号に掲載されている。

18年3月27日、党本部を訪問した中国社会科学院の王偉光・学部主席団主席、高洪・前日本研究所所長、王鐳・国際合作局長ら代表団一行8人と会談。社研の山口富男副所長、川田忠明幹事、谷本諭幹事もこれに参加した[8]

脚注編集